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妄想技術録

デジかわ とそこから適当に飛んだまとまりのない文章

デジかわ is 何

デジかわってなにかというとデジタルでかわいいことを指しています。ここでいうデジタルは厳密に離散的であるとかそういったことは抜きにしてます。だったらエレかわ?なんでもいいや。 どんなものを指しているかでいえば、例えばニアちゃんとかがそうですね。

negipoyoc.com

これはおそらくぽよしさんがみせてくれているワクワク感も評価に含まれてしまっているとは思うんですが、正直自分ではわからない。あとはDJ RIOちゃんとか。

twitter.com

(よく考えたら2人共とれさんが作成したのだとここで気づく)

僕は自身をいわゆるVTuberガチ恋オタクとは割と無縁くらいには思っている(フラグ)のですが、キャラクターの可愛さとかは結構ゲームを選ぶときの基準になるときがあります。結局友だちがうまくできなくて(泣)やめてしまったけどToSとかもその観点で選びました。

「かわいい」がかなり主観的なように当たり前ですがデジかわも主観的です。 基本的にデジカワなものは好きですが、デジかわをアンテナのキーワードに添えるとデジかわ判定機が必要になってきてその定義に悩むと思うので、それはやめたい。だから聞かれたときに説明する程度に留めておきたい。宇多田ヒカルさんの(特に休養前の)曲をよく聴いていた時期があり、そのときに宇多田さんの書籍を買いました。『点』と『線』の二部構成になっているのですが、その中に「ジャンルを分けることは音楽に対する圧力だと思う」みたいなコメントがあるんですね。これは本当に同感で、曖昧なところを言語化するために無理やりぶった切る必要はないとおもっていて、それはそれ、というものを大事できるといいなとおもう。説明のために作品があるわけではないので。いや説明しなければいけないものもあるけど。これは宇多田ヒカルさんの受け売りというわけではなくて、やりたいことを一言では言語化できなくてもやもやしておりました。

そういえばこれ、無理に言語化しなくてもいいと思ったことがあって、名古屋の路上で日本一周?してきた人の写真を買ったことがあったんですよ。いまなら多分買わないけど。なんかそのときは買ったんですね。で、質問も質問で雑だったとは思うんですけど、日本一周してきたことやその時撮ってた写真の感想を聞きたくて「どうだったんですか」みたいな質問をして返ってきたのが「そんな一言では洗わせるわけ無いですよ〜」でした。いやこれ当たり前だと思うんですけど、当時就活やらなんやらで疲弊してた僕には完全にアウトオブ眼中でしたね。 自分の中にもやもやしているものをいちいち数分の間にエッセンスだけコンパクトにまとめられず、死んだ顔をしたので。いやこれは自分の言語化スキルの問題も少なくない割合であるとは思うんですけど。 言語化からの逃げなのではということに関しては、それはそうという側面と、だからといって一言にまとめる必要がないものはやはりないと思う側面があることを付け足しておく。

これは月並みですが、就職活動をやることで身につくスキルもたしかに大事ですね。ただしその中で自分の得意なものを失うようならばやり方を変えないと死んじゃうので気をつけたほうが良いと思いました。

閑話休題。っていうかこれ自身が閑話なんですが。 それはさておき、名前をつけるとその概念をせるということを以前からもやもやと考えていたら、これもどこかで同じことを考えている人がいたようでTwitterに流れてきました。だから逆に言えばしたかったら名前をつけることでそれが可能になる。あとはその対象の概念からその名前が外れないようにしてしまい、浸透させれば操作可能な存在としてなんとでも(誇張)できるような印象。印象!!

そしてこれは書いていて新しい発見なのですが、比較的離散的な作業である分類を、デジタル作品で嫌うというのは、なんか面白いですね。何か矛盾を感じるけど、これは多分気がするだけで特に問題ないかな。よくわからない。

なんか色々書いたけど今回もデジかわを皮切りにあちこちに話がとんでしまったがまぁよしとする。脳トレとして久々にダラダラと書いたら頭少し整理された。よかった(こなみ)。 さて2018年の振り返りに戻ろう。はぁ。

追記:『点』『線』の正確にはどこに書いてあったっけと思って開いたところ、ちょうど目に飛び込んできたのが田村隆一氏が書いた「帰途」という詩の話で、言葉にならないことを言葉にする葛藤の話だと述べられていた。すごいタイミングで目に飛び込んできた。読もう。 肝心の記載の場所は258ページでした。もしくはFACT「MUSICA」の2007年3月号の引用っぽいです。